美術家たちの生涯を評伝や回顧展でたどってみると、スタイルが時代とともに変遷をとげ、同じ作家とは思えないほど多様な作品を残していることに気づく。さまざまな場所で過去の自分を現在に生かしながら道を切り拓いていった先達に、40歳のころ、とても勇気づけられるとともに、彼らの晩年に興味を抱いた。
19世紀末から20世紀初頭のパリで新たなスタイルを探求した巨匠たちの足跡が、南仏(ミディ)のプロヴァンスやコート・ダジュールには数多く残されている。あふれる陽光のもとで制作し、アトリエを構え、温暖なその地が終の住処となっていることもままある。セザンヌPaul Cézanne(1839‐1906)はもともとエクス=アン=プロヴァンスの出身で、晩年に故郷へ戻ってアトリエを建てたのだったが、ルノワールPierre-Auguste Renoir(1841‐1919)やマティスHenri Matisse(1869‐1954)、ピカソPablo Picasso(1881‐1973)、シャガールMarc Chagall(1887‐1985)らは、自ら南仏を終焉の地に選んでいるのである(*1)。
晩年に南仏で制作を続けた作家たちのエピソードのなかでとくに惹かれたのは、マティスがコート・ダジュールの岩山に築かれた町の一つ、ヴァンスにある〈ロザリオ礼拝堂La Chapelle du Rosaire〉の装飾に全精力を傾注したことだった(*2)。ステンドグラス、壁画、陶器、彫刻から祭服のデザインに至るまでを手がけたのである。マティスといえば、カンヴァスに色彩を爆発させたフォーヴィスムの作家だ。晩年の『ジャズJazz』シリーズなど色面だけで構成された切り紙絵にしても、色面が図像になるかと思えば、余白が別のイメージをつむぎ出す。だから色彩が生き生きと踊り、画面に光が感じられる。南仏の豊かな光を受けてマティスの色彩がきらめく空間を是非とも見てみたくなった。彼が設計段階から関わったというその礼拝堂が、どのくらいのスケールでどんな場所に建っているのかも知りたかった。
南仏に美術家たちの足跡を訪ねる旅が実現したのは、1992年3月のことだ。パリから南下して、まずはプロヴァンスに入る。マルセイユのサン=シャルル駅から電車で3、40分ほど内陸へ入ったエクス=アン=プロヴァンスにセザンヌのアトリエを訪ねた。旧市街を抜けて北へ約500メートルの、レ・ローヴと呼ばれる丘に建つ二階家の2階部分がアトリエである。絵具や絵筆といった道具類や、絵のモチーフにした髑髏、リンゴなどが生前と同じ場所に置かれていた。天井は高いが、想像していたよりもこぢんまりとして簡素な室内にはテレピン油の匂いがたちこめている。セザンヌは亡くなるまでの数年間、毎日のようにカンヴァスを背負ってサント=ヴィクトワール山を描きに出かけ(*3)、自ら設計したこのアトリエへ戻ってきてはまた油絵を描いていたのだ。巨大な作品をつくる作家と違って、彼がとくに広いアトリエを必要としてはいなかったことが納得できた。
*1 ルノワールは中仏リモージュ生まれ。1903年にカーニュ=シュル=メールに移り住み、08年に新築した自宅兼アトリエ〈レ・コレット〉で19年に没した。墓所は妻の故郷シャンパーニュ地方のエソワにある。
スペインのマラガ生まれのピカソは南仏の各地に滞在して旺盛な制作活動を続け、1961年からムージャンで暮らした。亡骸は58年に購入したエクス=アン=プロヴァンス郊外のヴォーヴナルグ城の庭園に埋葬されている。
ロシア(現・ベラルーシ)のヴィテブスクに生まれたユダヤ人のシャガールは、第2次大戦後、亡命先のアメリカからフランスに戻り、1950年からヴァンス、66年からはサン=ポールに暮らし、サン=ポールの墓地に眠っている。
*2 画家マティスには、まさしく「絵を描いている人」のイメージがある。これは〈Portrait〉シリーズ初期作品のうちの1点。
山本容子「Mild Matisse」(部分)1982年、エッチング、60×36.5cm
ちなみに、ピカソについては、「ものを食べている人」として、アサリを食べる姿を絵にしている。(「Pica Picasso」、1982年、エッチング、60×36.5cm)。
*3 セザンヌが死の直前までの数年間に60点も描いたサント=ヴィクトワール山は、標高1011m。エクス=アン=プロヴァンスから約20キロのところに位置する。