1989年7月、1993年11月、そして2003年6月と、図らずも3度訪れることになった土地がある。メキシコである。
首都メキシコ・シティをはじめ、メキシコ各地には、1922年に壁画運動が始まって以降、公共施設の内外に描かれた多くの壁画がある。1910年の革命の後、メキシコ人のアイデンティティとして、先住民(インディヘナ)や混血(メスティーソ)の人びとの文化や伝統を民衆にわかりやすく伝え、啓蒙するため、当時の文部大臣ホセ・バスコンセロスが若手のメキシコ人美術家に壁画制作を依頼したのだ。
初めてのメキシコへの旅は、その壁画を見るのが主な目的だった。ディエゴ・リベラDiego Rivera(1886-1957)を中心に、メキシコ壁画運動の3巨頭、シケイロス(*1)とオロスコ(*2)の作品を各地に訪ねようというのである。しかし、リベラ関係の資料で写真を見かけた妻フリーダ・カーロFrida Kahlo(1907-54)にも強い興味を覚えた。黒い髪に浅黒い肌が先住民(インディヘナ)の血筋を感じさせ、太い眉に強い意志の力が宿ったその顔はとても印象的だった。そのころ、日本ではまだ彼女のことはほとんど紹介されておらず、画家だというけれど、どんな絵を描いたのか、実際に彼女が生きた土地の風土の中でじっくり見てみようとも思った。
1989年当時のメキシコ・シティで忘れられないのは、〈空気〉の洗礼だ。空港に降り立った途端、ガソリンの臭いに包まれ、目はチカチカ、喉はヒリヒリ痛んだ。大気汚染が深刻化していたころで、街全体がスモッグに覆われているかのように景色が黄色く霞んで見えた。チェックインしたホテルで喉を潤そうとビール(*3)を飲んだら、アルコールには強いはずがあっという間に酩酊してしまい、そのとき初めて街が標高2240メートルにあることに気づいた。高地の気圧に身体が慣れていなかったのである。
それでも、まずは、リベラの代表作が描かれた国立宮殿のある、〈ソカロ〉(*4)と呼ばれる広場へ向かった。石畳の上で、大勢の先住民(インディヘナ)や混血(メスティーソ)の行商の人びとが店を開き、おびただしい数の観光客が行き交っている。メキシコ・シティの街はこのソカロを中心につくられていた。
今日では大統領が執務する国立宮殿で出会ったリベラの作品は、それまで抱いていた壁画のイメージを完全に覆すものだった。日本の障壁画からの連想か、何とはなしに土壁や板壁に描かれた四角い大きな絵を想像していたが、その画面は床から1メートルほど上の辺りから、幅の広い石造りの階段の傾斜に沿って、半円形のアーチが連なる天井まで、壁一面を埋め尽くす形で広がっていたのだ。中庭から入ってすぐの中央階段の正面にびっしりと描かれた「メキシコの歴史:征服から1930年までHistoria de México: de la Conquista a 1930」(1929-31年、8.59×12.87m)である。
*1 ダビッド・アルファロ・シケイロスDavid Alfaro Siqueiros(1896-1974)は10代のころから美術とともに政治活動に没頭。20代初めにパリでリベラと出会っている。国立芸術院や文部省などの建物内部以外に、戸外に適した描画材料を開発してメキシコ自治大学ほかビルの外壁にも多くの壁画を描いた。
メキシコ文部省の中央階段及び円天井 ※
メキシコ自治大学の外壁 ※
*2 風刺画家から出発したホセ・クレメンテ・オロスコJosé Clemente Orozco(1883-1949)の壁画は、メキシコ・シティのほか、故郷ハリスコ州の州都グアダラハラの公共施設にもたくさんある。とくに、ハリスコ州庁舎の中央階段天井からメキシコ独立運動の指導者イダルゴ神父が躍り出すように描かれたものは有名。
ハリスコ州庁舎の中央階段天井部分 ※
*3
メキシコにはおいしいビールがいろいろある。ライムと塩を添えて〈テカテTecate〉を飲んだ(1989年7月)
*4 メキシコ・シティの中央広場の正式名称は〈憲法広場〉だが、もっぱら〈ソカロZócalo〉と呼ばれている。アステカ王国の時代には、ここが都テノチティトランの中心で、神殿と王宮があった。
スペイン人はメキシコに街をつくったとき、まず中心として〈ソカロ〉を定め、その周囲に教会と行政府の庁舎を配し、碁盤の目状に道路を建設していった。
ソカロ脇の通りに、行商の店がびっしりと連なっている ※