翌日、マルセイユから10時57分発の列車に乗り、コート・ダジュールの中心都市ニースを目指した。5日間ニースに宿をとって拠点とし、マティス美術館、ヴァンスのロザリオ礼拝堂をはじめ、アンティーブ、ビオット、カーニュ=シュル=メール、サン=ポール、マントンといった土地にある画家のアトリエや美術館を列車とバスで訪ねて廻る計画だった。
コート・ダジュールが近づくと、車窓に広がる大海原に明るい光がきらめいている。靄がかかった水平線を船が行き交い、海岸の棕櫚の木が南の穏やかな風にかすかに揺れていた。同じ地中海でもマルセイユで見た海には紺や白、グレーを強く感じたけれど、こちらではうって変わって濃いグリーンと黄色、黄緑が目に飛び込んできた。人の心を解き放ち、やすらがせてくれる色彩だ。マルセイユを発ってから2時間ほどでニースに到着し、海岸に沿ったプロムナード・デ・ザングレに建つホテルに荷を下ろした。マティスやデュフィ(*4)も絵にした、ゆるやかなカーヴをなす〈天使の入江〉を部屋の窓から眺めようと思ってのことだ。
ニースはマティスの終焉の地である。ベルギーに隣接する北仏ノール県のル・カトー=カンブレジ(*5)で生まれたマティスは、20歳のとき、虫垂炎を悪化させて療養する間に絵に対する興味を深め、法律家から画家に転身した。初めてニースを訪れたのは1916年。そのときから毎年ニースへやって来ては海沿いのホテルや一時的に借りたアパルトマンで絵を描き、1921年には旧市街のシャルル・フェリックス広場のアパルトマンにアトリエを借りた。それ以降、年の半分はニースで過ごすようになったのだった。ところが、1938年、気管支の弱いマティスは医師から湿気の多い海辺を離れたほうがよいと助言され、高台のシミエ地区に移る。こうして、19世紀末に建てられた高級ホテルを改装したアパルトマン〈ル・レジナ〉の一室が、マティス最後のアトリエとなったのだった(*6)。
宿で荷を解いたあと、その〈ル・レジナ〉の近くにあるマティス美術館へ向かったが、残念ながら改修中で閉まっていた。
コート・ダジュール滞在4日目の火曜日、遂にヴァンスへ行く日がやってきた。ロザリオ礼拝堂は当時、火曜と木曜しか見学できなかったのである。10時発のバスに乗り、1時間少々でヴァンスの観光案内所のある広場に着く。午後の見学時間までの間に旧市街を散策して昼食を済ませ、市街の北にそびえる丘の中腹の礼拝堂を目指した(*7)。
レジスタンス大通りからジャン・ムーラン交差点の5叉路を経て橋を渡り、アンリ・マティス大通りと名づけられた坂道を15分ほど上ってゆくと、右手に尖塔が見えてくる。鉄製の棒を組み合わせた十字架を金色の三日月形のモチーフで飾った軽快なデザインがマティスらしい。脚の部分は束ねたリボンが広がるように4本の棒がカーヴし、吊り下げられた鐘を包み込んでいる。青と白の2色で幾何学模様をなす瓦の乗った屋根は切妻造。純白の壁の妻部分には、青色で縁取られた白いタイルに黒い描線の聖母子のメダイヨン(*8)が妻飾りとしてある。
*4 ラウル・デュフィRaoul Dufy(1877‐1953)も初期にはマティスと同じくフォーヴィスムの画家だった。数ヵ月滞在しただけだというプロヴァンスのフォルカルキエで急逝し、亡骸はやはりマティスと同じくシミエ修道院隣の墓地に埋葬されている。
*5 マティスは故郷ル・カトー=カンブレジに自ら82点の作品を寄贈し、亡くなる2年前の1952年、美術館が開館している。その後、遺贈や国からの委託、購入によって展示作品もさらに充実しているという。
*6 『マティス――趣と光Matisse: Saveurs et Lumières』(ジャン=ベルナール・ノダン編、1997年、エディション・デュ・シェーヌ社)には、マティスのニースでの制作風景のほか、シャルル・フェリックス広場及びシミエのアトリエで制作された作品のうちの三十数点に描かれたモチーフを再現した写真が載っている。一般には公開されていないアトリエ内部の様子も垣間見られる。
*7 ヴァンス旧市街のフレーヌ広場からは、〈ロザリオ礼拝堂〉の建つ丘の南側斜面が見える。
*8 円形や楕円形の絵画や浮彫りなどの装飾をメダイヨンmédaillon(フランス語)という。