国立宮殿内ではたくさんの観光客がさまざまな体勢で画面と対峙していたが、熱心なその姿に壁画運動の真骨頂を見る思いがした。絵は一瞬にして何十、何百、何千文字分もの情報を、文字を解すると解さないとにかかわらず、等しく人びとに伝えられる。メキシコの歴史や人びとの暮らしを生き生きと伝える壁画には、パリの画壇で注目され始めていながらメキシコへ戻って壁画運動に参画したリベラの画家としての全エネルギーと情熱が注ぎ込まれている(*6)ようで、絵の好き嫌いはさておき、見る側の心をとらえずにはおかない迫力があった。他の画家たちも皆、絵のもつ力を最大限に利用した啓蒙活動に携わることに大きな意義と喜びを感じていたに違いない。
メキシコで絵に与えられた役割の大きさについては、地下鉄の駅名表示からも実感された。スペイン語で書かれた駅名にそれぞれ絵記号(ピクトグラム)がついていたのだ。たとえば、アステカ王国最後の王の名前をとったクアウテモック駅は、クアウテモックが「急降下する鷲」を意味することから鷲の頭部、革命記念塔そばの革命(レボリューション)駅なら革命記念塔の絵といった具合に、それだけでちゃんと駅を区別してイメージできるようになっていた(*7)。絵の力を借りて、スペイン語を話さない人びとへの細やかな配慮がなされているわけである。
さて、国立宮殿の壁画「メキシコの今日と将来」に描かれた権力者に立ち向かっていく工場労働者と農民の群像の中には、フリーダ・カーロの姿もあった(*8)が、リベラはそれ以外の何点かの壁画にも彼女を登場させている。その最初は1928年制作のもの。文部省の中庭を囲む3階建ての回廊(*9)の約1600㎡にも及ぶ壁面に、200点を超える壁画を制作中のリベラを、21歳のフリーダが自分の絵を見せに訪れた。恐らくそこで彼女は溢れんばかりのリベラのエネルギーに圧倒され、魅せられたのだろう。ほどなく2人は交際を始め、リベラは1923年から取り組んで終盤にさしかかっていたその壮大なプロジェクトの一部を構成する連作『革命のバラードCorrido de La Revolución』のうちの1点に彼女を描き込んだ。「武器庫El Arsenal」と題された2.03×3.98mの画面中央に、赤シャツに共産党員の印である〈赤い星〉をつけ、労働者たちに武器を配るフリーダがいる(*10)。2人はその1年後に結婚したのだった。
フリーダ・カーロが絵を描き始めたのは、18歳のときに負った瀕死の重傷がきっかけだ。乗っていたバスが路面電車と衝突し、鉄パイプが下半身を貫通。脊椎、鎖骨、肋骨、骨盤などを複雑骨折して療養生活を送るうち、写真家の父親の勧めでベッドに横たわったまま自画像などを描くようになったという。事故の怪我が元でリベラとの子どもは遂に産めず、30代後半には後遺症のために脊髄の痛みが激化。47歳で亡くなるまでに30回以上もの手術を受けた。コルセットや車椅子、鎮痛剤や酒の助けを借りて、人生の大半を苦痛と闘いながら生きた彼女の原動力となったのは、リベラとの葛藤にみちた愛であり、絵を描くことだったようだ。
*6 身長180cm、体重130kgのリベラは、フレスコ画を描く下壁や塗料を整える助手とともに、1日15時間以上もの制作を行なっていたといわれている。
*7
メキシコ・シティの地下鉄2号線の路線図
*8 このフリーダの下には、赤い上着を着た彼女の1歳年下の妹クリスティナと2人の子ども、イソルダとアントニオも描かれている。この絵の制作が始まった1934年、離婚して実家に戻っていたクリスティナがいくつかのリベラ作品のモデルをつとめるうちにリベラと不倫関係になっていたことを知ったフリーダは翌年、家を出ている。
*9
メキシコ文部省の回廊の2階部分
*10
「武器庫」(部分) ※
リベラは同じ画面の中に、友人シケイロスや、恋人だったアメリカの写真家ティナ・モドッティTina Modotti(1896-1942)も描いている。