版画や写真など、さまざまな技法を駆使して作品をつくってきた画家だが、その一方で数多くのオペラやバレエの舞台美術や衣裳も手がけている(*3)。1983年、それまでに制作した8作の仕事を一挙に紹介しようと、ミネアポリスのウォーカー・アート・センターは「ホックニー・ペインツ・ザ・ステージHockney Paints the Stage」展を開催(*4)。展覧会カタログには、ホックニーがそれぞれの舞台のために構想を練りながら描いたアイデア・スケッチや、情景のドローイング、上演される劇場の客席からの視線を考慮したうえで詳細につくり込んだという場面ごとの舞台模型が載っている。物語を公演写真に沿ってホックニー自身が解説しているのも、音楽と台本を十分に研究したうえで美術を手がけたことがうかがえて興味深かった。
ところが、カタログには掲載されていない重要な展示作品も存在していたのだった。展覧会に際してホックニーは、上演時の舞台美術をもとに3分の1のサイズであらためて舞台セットを制作していたのだ。ホノルルの地でたまたま見る機会に恵まれた『子供と魔法』のインスタレーションとは、そのうちの1点を「ホックニー・ペインツ・ザ・ステージ」展が巡回を終えた翌年、設立の決まった現代美術館が常設コレクションとして購入したものだったのである。こうして、作品1点を収蔵・展示するためだけに展示館が建設されたのだった。
実際に館内に入ってみると、これがまた驚きだった。通路だと思って歩いていたら、そこは舞台の上だった。ガラス張りの展示室にある美術作品を外から覗き込むのでもなければ、実際に劇場で舞台美術を1階の平土間席から見上げたり、バルコニー席から見下ろしたりするのとも違う。絶えずラヴェルの音楽が流れる展示空間の左右一杯に両袖を広げたその舞台セットは、目の前の床の上にじかに置かれていた。高さは3メートルを超え、間口も7、8メートルはある。本物の舞台の3分の1のサイズとは思えないスケール感をもつセットを、まさに舞台上に立つ演者や制作者の目線で見ることとなり、本当にホックニーの手がけた舞台上に身を置いているかのような感じがしたのだ。こんなインティメイトな展示方法はホックニー本人の提案によるものに違いないと、彼の精神にふれたようで感激した。
*3 イギリスのグラインドボーン・フェスティヴァル・オペラでのストラヴィンスキーの『放蕩者のなりゆきThe Rake's Progress』(75年初演)とモーツァルトの『魔笛Die Zauberflöte』(78年初演)で注目を浴び、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場でフランス作曲家3部作(サティの『パラードParade』、プーランクの『ティレジアスの乳房Les Mamelles de Tirésias』、ラヴェルの『子供と魔法』)と、ストラヴィンスキー3部作(『春の祭典Le Sacre du Printemps』『夜うぐいす(ロシニョール)Le Rossignol』『オイディプス王Oedipus Rex』)が初演された81年ごろ、おそらく最も精力的に舞台美術に取り組んでいる。その後、87年にロサンゼルス・ミュージック・センターでワーグナーの『トリスタンとイゾルデTristan und Isolde』、92年にリリック・オペラ・オブ・シカゴでプッチーニの『トゥーランドットTurandot』、ロンドンのロイヤル・オペラハウスでR・シュトラウスの『影のない女Die Frau ohne Schatten』が初演されている。
*4 この展覧会は1983年11月にミネアポリスで開幕し、翌84年にメキシコ・シティ、トロント、シカゴ、フォートワース、85年にサンフランシスコを経て9月、ロンドンで終了している。
カタログはウォーカー・アート・センターのマーティン・フリードマンを中心に、グラインドボーン・フェスティヴァル・オペラの舞台を演出したジョン・コックス、メトロポリタン歌劇場の演出家ジョン・デクスターとホックニー、詩人ステファン・スペンダーが執筆している。
なお、日本では「ホックニーのオペラ」展が92年6月から93年10月まで、東京、札幌、名古屋、神戸、広島、水戸で開催。70年代の2作に『夜うぐいす(ロシニョール)』『トリスタンとイゾルデ』『トゥーランドット』を加えた計5作の舞台美術が紹介された。カタログは毎日新聞社刊。