実際には、つばを上にしてさかさまにころがっている帽子が風に吹かれて徐々に傾き、伏せた状態になって、最後には飛んでいくという、一つの帽子の3つの変化は実現できなかった。第1幕では、帽子はモモの居場所の円形劇場として人間が縁に腰掛けていられるだけの強度が必要だが、それを容易に動かすには軽い材料で造らなければならない。しかし、10メートルを超える大きなものは、たとえベニヤ板であってもかなりの重量となり、布を張るとさらに重くなる。そのため、第1幕は骨組みだけの帽子を使うことになったのだが、その〈帽子の骨〉というアイディアは結果的にナンセンスな表現を呼び起こし、新たなものを生み出す可能性にみちた共同作業のおもしろさを実感した。第2幕と第3幕では、当初のイメージどおりの巨大な楕円形の帽子を発泡スチロールでつくり、吊るして家の屋根にしたり、少し下ろして手前に傾け、レストランのテーブルにしたり、また持ち上げて街の空に雲のように浮かべたりもした。ホックニーが発泡スチロール板を使っていたのにはそれなりの理由があったのだと思い至るプロセスだった。
衣裳については、装置の帽子が舞台上をゆったりと移動するなか、登場人物が動くたびに身につけたものが揺れて細かな時間を刻むよう、裾にバネやワイヤーを入れた。また、その人物の職業を衣裳で表現することにして、たとえば居酒屋の主人にはワインのボトルを載せた帽子をかぶせ、床屋の帽子にはブラシをつけた。その衣裳で歩き回ると、ユーモラスな光景を生むと同時に、ブラシなどは小道具ともなる。美術のセットの役割の一部を衣裳にもたせたのである。
なお、主人公のモモはどこかからふらりとやってきた少女だから、移動するサーカスの人びと、とくに大好きな映画であるフェリーニFederico Fellini(1920‐93)の『道La Strada』でジュリエッタ・マシーナGiulietta Masina(1921‐94)が演じたジェルソミーナのイメージを重ねた。原作でモモを見守るベッポとジジの2人を合わせたようなキャラクターをもつ〈語る男〉は、同じくリチャード・ベースハートRichard Basehart(1914‐84)演じる綱渡りの男マットである。
ホックニーの舞台セットを見たことをきっかけにして舞台美術と衣裳への関心が高まり、実際にその仕事を経験してみて思うのは、何かものを見せるということは、当然のことながら、何をどう見せたいのか、コンセプトが肝心だということだ。一定の場所から動かされることの少ない絵画や彫刻については、どのような環境に設置されているかが、見る側にとっても、見せる側にとっても重要である。ホックニー作品の展示のために建てられたミルトン・ケーズ館の場合、『子供と魔法』の舞台セットが収蔵されるのに理想的な要素は、実はもう一つあった。ハワイでも指折りの美しい庭園の敷地にラヴェルの〈庭〉がある、つまり、庭の中にまたある種の庭があるという発想をホックニー本人が歓迎したからだったのである(*10)。
思えば、確かにあの緑の庭園を通ってミルトン・ケーズ館へと向かう道程は、知らず知らずのうちにラヴェルの〈庭〉へとつながっていた。ラヴェルが作曲したときに思い描いた空間と、その曲を聞いて抱いたイメージをもとにホックニーが制作した空間、そして現実のホノルルの空間が、どこかシンクロし合って、豊かな時間を見る側に与えてくれている。そんな気がした。
*10 高台からダイヤモンドヘッドを見下ろすこの美術館の庭園は、〈ヌウメアラニNu'umealani〉、ハワイ語で(天国のテラス)と呼ばれている。