『子供と魔法』(*5)は1幕のオペラで、第1場は〈室内〉、第2場は〈庭〉である。〈室内〉の太い青色の梁が走る天井と、緑色の地にピンク色で羊飼いが即興的に描かれたような左右の壁紙は、背景幕に似せてはあるがカンヴァスだ。舞台右手(上手)に張られた木の床の上には、劇中で少年が破いた童話の本からお姫さまが飛び出してくる様子が、連続写真のように1コマごとの動きを示す10体の人形で表現されている。人形と言っても彫刻のような完全な立体ではなく、顔、髪と冠(ティアラ)、ドレスをそれぞれ肌色、黄色、青色に絵具で塗り分けた発泡スチロール板を十字に組み合わせ、自立するようにしたもの。茶色の地に黄色の木目がくっきりと浮かび上がる床は、黄色の上に茶色を塗り重ねたあと、スクラッチしたように見えた。そのディテールから、ホックニーの制作過程が追体験できたのだった。
一方、舞台左手(下手)の壁際に設えられた暖炉やうずくまる黒猫は板に絵具で描かれ、写真立てのように裏側に支えるための足が付いている。壁紙に色が塗られていない部分があるのは、少年が引き剥がしたところのようだ。そばの床に剥がれた壁紙から抜け出た羊飼いの男女が何組か、お姫さまと同じような仕掛けで立っている。
〈室内〉の左右に分かれた背景幕のような壁紙の奥には、夕暮れの〈庭〉が広がっていた。実際の舞台では、少年が外へ出て行くのと同時に幕が上がって、青い葉をこんもりと茂らせた真っ赤な太い幹の巨木が一面の緑の中に浮かび上がるのだろう。この青と赤と緑は、その後、ホックニーが移動遊園地スタイルの現代美術館〈ルナ・ルナ〉のために制作した〈魔法の木〉の館にも用いられていた。それが1980年代に彼が求めていた色彩表現の一つだったようだ。
〈ルナ・ルナ〉の遊戯設備(アトラクション)が同時にアーティストによる立体作品だったのと同じく、『子供と魔法』の舞台セットも同時にホックニーが描いた立体の絵画である。壁紙の下地の色にしても、暖炉の火にしても、勢いのあるタッチはホックニーその人の手になるものではないかとの印象を受けたが、それを裏打ちするように、パンフレットの中面に、大きな刷毛で〈庭〉の木に色を塗るホックニーの後ろ姿が写った写真が載っていた。
こうして、ホノルルで思いがけずホックニーの舞台セットを間近に楽しむことができたのだが、初めて出会ったホックニーの作品とは版画だった。版画を学び始めたころ、同時代の美術の一大潮流だったポップアートの洗礼を当然のように受けると、その旗手の1人で、自分と同じ銅版画を制作している作家として注目したのがホックニーだったのである。ことに『6つのグリム童話Six Fairy Tales from the Brothers Grimm』(1969年)(*6)のエッチングの線の美しさ、余白の美しさには感動した。それまで抱いていたエッチングの重厚なイメージが払拭される瞬間を味わった。6篇のグリム童話と39点の挿画によるブックワークなのだが、物語をモチーフにしているところにも憧れた。オリジナル版画を刷り入れた挿画本と同時に出版された紺色の表紙の手のひらサイズのミニチュア版の中で出会ったその連作は、自分の作品づくりの方向性を考える上で大きな影響を受けた一つだ。
*5 『子供と魔法』は、コレットCollette(1873-1954)が第1次世界大戦中に書いたバレエ台本をもとに、ラヴェルが作曲した(1925年初演)。フランス北西部ノルマンディー地方の古い田舎家に住む6、7歳の少年が、室内の家具類を壊したり本を破いたりと、いたずらの限りを尽くし、夢の中で家具たちに嘆かれ、傷つけた庭の生き物たちに逆襲されて心を入れ替えるというストーリー。
*6 ホックニーが選んだ6篇は、「あめふらし」「めっけ鳥」「野ぢしゃ(ラプンツェル)」「こわがることをおぼえるために旅にでかけた男の話」「リンクランクじいさん」「がたがたの竹馬こぞう」。
ホックニーの初期の自伝『David Hockney by David Hockney - My Early Years』(1976年、テームズ・アンド・ハドソン)には、準備段階から制作、出版に至るまでの出来事が綴られている。ミニチュア版は当初、挿画本の宣伝のために企画されたが、好評により出版されて版を重ねたという。